去年の今頃

私がポポビッチ待望論を記述して、多くの方がここを一時的にせよ訪れ、また、好意的な意見もいただいた。私は、今すぐに交代して、という意味で記述したのではない。これからの大分はどういうクラブを目指すのか?その核に据える監督とは?という意味で、来季以降も含めて言ったつもりだった。
日本映画で監督と呼ばれる人は多い。しかし、お抱え監督はごく少数だ。昔、自主制作で映画を作った監督たちがいた。商業的には厳しくても、そういったしがらみから離れて自分たちが撮りたい題材を自分たちの手で作り上げた監督たちがいた。そうした運動が今の日本映画を支えているひとつの柱になっていると思う。
ちなみに、湯布院映画祭は今年で35回目となる。日本で一番古い映画祭だ。
大分もサッカーを文化として認めるならば、それもありかな、と。それしかないかな、と思ったからだ。この文化を通じて世界と繋がる。人生を楽しむことができる。サッカーは人生を豊かにするものだ。このことはマスゴミは理解していないし、他のメジャークラブも理解していないだろう。協会も本当の意味で理解しているとは言い難い。
ピンチがチャンスなのだ。誰も気づいていないが、代表は大分と同じ道を歩いている。大分は先を行っているのだ。トップランナーとしての範を示さねばならぬ。湯布院映画祭がそうであるように、価値観を共有して新しい文化を作り上げねばならないのだ。

そうした思いの中で思い出されたのがポポビッチだった。

去年の今頃。改めてポポビッチ監督の言葉を拾い上げてみる。

「私の人生には3つのFが重要である。フットボール、ファミリー、フレンド。この町には全てある。」

「私は世界中どこのチームにいても考えは同じだ。勝利のために神経質になるし、勝つための練習をして試合に臨む。そして決してあきらめない。」

「コピーはオリジナルには勝てない。我々は素晴らしいオリジナルになる。自分たちの形を作り、勝たなければ意味がない。相手の長所を消し、リアクションサッカーだけでは、後手に回る。自分達で何かアクションを起こし、相手より多くチャンスを作り出す。」

「一言で言えば全員で守り全員で攻めること。・・・・・・秩序を守ることが重要。」

「練習は量より質。間違った練習をしても意味がない。選手が何のための練習か理解していないと駄目。」

「私は、ハードな練習を強いているとは思っていない。選手はプロである以上勝つために練習するのは当たり前。それに選手たちは皆楽しそうだろ?」

「私はサッカーに携わっている間はサッカーを四六時中考え、そして、サッカーを楽しみたいと思っている。」


セルビアのサッカーに魅力を感じるのは、もちろん高い技術、スピード、強さ、精神力をあの東欧の小国で実現していることにあるわけなのだ。そこには、サッカーに対する愛情があり、強くなりたいという渇望であり、幸せであるというところにあるわけで、それは、われわれにも共通する部分でもある。

監督とはコーチなのか、マネージャーなのか?
親戚の子に質問された。高校野球を見ながらである。コーチとは教える人、みたいな。マネージャーとは経営的な面も含めたみたいな響き、感覚がある(本当のところはどうなんでしょうね。コーチはヨーロッパ的。マネージャーはアメリカ的感覚だと思うが)。
コーチングという言葉があるように、サッカー、大分にとって必要な監督とは、コーチングできる人だと思った。
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by worsyu | 2010-08-16 18:28 | サッカー | Comments(0)
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