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殉空の碑物語

1945年5月5日。B29爆撃機が明治村(現在竹田市)の山中に墜落した。日本海軍粕谷二等飛行兵の乗る紫電改の体当たりにより墜落したのだ。
落下傘で脱出した搭乗員は12名。その内3名は墜落死(パラシュートが開かなかったり)。残り9名は熊本側と大分側にそれぞれ逃げ出した。これが運命の分かれ道だった。

熊本県阿蘇郡小国町薊原に逃れたウェニック伍長は村民に猟銃で撃たれ、その後、大鎌で心臓をめった刺しにされ、死亡。同小国町小原から逃走したコールホーワー伍長は後に死体となって発見される。南小国町満願寺白川から逃れていたジョンソン伍長は村民に取り囲まれ、後ろから鎌でアキレス腱を切られ、その後、懐からピストルを出して自殺。ケームス少尉は阿蘇郡産山村大利で猟銃射殺される。その死体は竹槍などで突き刺された後、墜落死したシングルデッカー少尉と共に宮地警察署前に置かれ、更に住民たちに陵辱された。
南小国町満願寺星和で捕まったウィリアム伍長と一宮町荻の草で拘束されたプランベック少尉は憲兵隊に引き渡され、上熊本駅前の電柱に背中合わせに縛られ市民に晒された後、福岡の西部司令部に送致された。
5名中3名が殺され2人が生き残った。

一方の大分側には、4名が逃れてきた。ワトキンズ大尉、フレドリック少尉、ポンシュカ二等軍曹、ザルネッキ伍長。そこでは、地元の開業医の加藤毅医師が応急処置に当たり、米兵らは、「ドクター、ドクター」と哀願の表情を浮かべ、消毒液に顔をゆがめながらも「サンキュー、サンキュー」と感謝したと言う。加藤医師は彼らと英語で軽く会話をしたらしく、子供は何人いるのか?とか、生まれはどこなのか、などを聞いたという。
その後、ワトキンス大尉は情報を得るために参謀本部(東京)へ移管される。残りの3名は福岡の司令部へ。
福岡へ送られた3名と熊本の2名は九州大学医学部で行われた生体解剖という忌まわしい人体実験に廻される。(目隠しをされてトラックの荷台で送られる途中、行き先が大学だと聞き安堵したという。哀れである。)
結局、生きてアメリカの地を踏めたのはワトキンズ大尉一人だけだった。

1981年。事件から36年後、ワトキンズ氏は竹田市民に対して感謝の言葉を寄せている。合同慰霊碑を建立し毎年弔っていることに対する感謝である。

NHKの戦争証言プロジェクト「B29墜落 アメリカ兵に遭遇した村 ~熊本県・阿蘇」では、番組の中で竹田市で起きた奇跡の出来事について触れていない。これは全国的に珍しいことだからだろうし、番組の趣旨がぼやけるからだろう。

私も不思議に思うのだ。なぜ、竹田の人々は彼らを殺さなかったのだろうか、ということを。もちろん、周りの民衆からは「殺してしまえ」という声も上がっただろうし、冷たい視線が投げつけられただろう。しかし、彼らは殺さなかった。それは人間としての尊厳を守ることを良しとしたのか?それとも、上からの指示があるまでは何もしないという規律観念があったからか。全国的に見ても珍しいのだ。ほとんどが斬首されたり、撲殺されたりしている。それが普通の時代なのに。

あの時代に、アメリカ兵を生かした竹田の理性というのは特筆すべき美談として讃えられるべきことだろう。

軍神広瀬武夫を生んだ地である。阿南陸相を生んだ地でもある。
by worsyu | 2010-08-24 12:39 | ひまネタ
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