相田みつを

         じ    い   い
       ぶ    っ    の
   花   ん    ぱ   ち
  を     の  い




日本語って不思議だなあって思うね。この相田みつをの短い詩であるが、実際は、彼独特のヘタウマの毛筆で書かれている。
命はいのちであり、自分はじぶんである。ひらがなにすると観念的になり、この中で唯一、花だけが漢字になっている。漢字は表意である。しかし、本来は表音なのだ。
中国で生まれた漢字は多民族間で意思を伝える為に利用されたにすぎない。中国人がしゃべる中国語も音として頭にあるだけで漢字が彼らの頭に整然とぎっしり詰っているとは考えにくい。

この詩を見てわれわれ日本人は、強調された花の周りにある言葉を繋ぎ合わせて映像として頭に描くことが出来る。想いが映像となるのだ。
日本人は漢字をうまく利用している。
相田みつをの詩は大衆に人気がある。単純で明快である。わかりやすい。でも、文学界などからは評価されていないのが現状だ。それは彼の独特の書によって私たちにビジュアル的効果を果たしているからだろう。単なる詩ではない。漢詩を書で書いただけのものは心に届かない。助動詞や助詞などがなければ言葉にならない。ひらがなで繋ぎ合わせることで文章になるのだ。しかも書は観念を絵(ビジュアル化)にしているものだ。

相田みつをの詩を就任の挨拶の時に引用した野田総理は、なかなかのものである。本人がどのくらい意識していたかどうかは知らないが、相田みつをブームの再燃を現象として果たしている。

日本人にしかこの想いや美はわからないかもしれない。このひらがなと漢字が書によって表されている民衆に支持される芸術作品だ。
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by worsyu | 2011-11-18 12:35 | ひまネタ | Comments(0)
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