パラドックスから見えてくるもの

日韓戦を見ながら思ったこと。
だめだこりゃ。気合の入れ方が違う。
韓国、結構フェア。そんなに汚くない。3人ぶっちぎられてのゴールは情けなかったね。
勝つためのサッカーをやっていたのが韓国。その違いが出た。
先制点が全て。ここからこじ開ける力は無かった。
試合後、キムボギョンといっしょに腰掛け、談笑している清武を見ながら微笑ましく思った。C大阪で同じ釜の飯を食った仲。(清武は大分出身、大分トリニータ出身である。)
韓国のおかげでここまで強くなれたわけだし、韓国サッカー界には感謝しなければならないね。
韓国大統領が竹島を訪問したという政治的な煽情ざたがあったが、選手たちはどこ吹く風。われわれが勝手に思い込みをしていただけだ。
韓国側は3位銅メダルを狙いに来ていたし、日本は決勝に進めなかったことのショックを引きずっていた。それが先制点を奪われ、しかも、守備をがっちり固めた相手にどうすることもできない焦燥感からカウンターを狙われ決められるはめに。
戦う前から負けは必然だったわけだ。日本はメンタルが弱いと韓国側から煽られたが、そういう意味ではなく、この試合に掛ける思い込みはやはり韓国の方が強かった。それはまぎれもない事実だ。

ところで、最近思うのは、幼児教育は大事だなあということだ。中国にしろ、韓国、北朝鮮にしろ、日本は悪いことをした国であるという教育を叩き込まれている。成人していくにつれ理屈ではある程度その教育が誤りであることを知る。しかし、感情の部分では残ってしまうのだ。
日本の幼児教育は偏狭なナショナリズムを排除しているという意味では間違っていないと思う。

大分は南蛮文化をかつて積極的に取り入れた。その経験はかすかなものではあっても確かに受け継がれているし、快しと思っている。
世界文化を積極的に取り入れてきた日本の独自性は世界に冠たるものなのだ。中国、韓国に限らず多くの外国人に大分を知ってもらいたいし、(大分を通じて)日本文化を感じて欲しいものだ。

私は一見偏狭な大分県ナショナリズムを振り回しているが、それは、パラドックスとしての意味でやっている。(わからない人は別にいいんですけどね)
大分といってもいろいろある。中津、宇佐、日田、竹田、国東、杵築、日出、別府、大分、由布、津久見、臼杵、佐伯、大野、九重。この違いを無視することはできない。違うものは違うのだ。しかし、同じものもある。共有できることはいっぱいある。
同じことは日本国内にも言えるし、お隣の国の韓国や中国にも言える。諸外国に対しても言えるのだ。
われわれは共有の幻想の中で実際に共同体を設定し、生活している。ヨーロッパでは通貨は統合されたが政治機能は各国別々だ。だから、ギリシャの負債をドイツが肩代わりしてやることは到底納得しない。しかし、日本では、人口が減少している地方に対し、国が援助してくれる。それに対し、東京等の大都市は不満をあまり漏らさない。
共同体の幻想が保たれているからなのだ。
しかし、これも経済が曲がりなりにも成長していたから許されていたことであって、これからはちょっと違うだろう。

たとえば、キムボギョンの活躍を喜んでいる自分や多くのトリサポは特殊なのか?そうではないだろう。

そういうことなのだ。

一番大切なことは人間の尊厳を失わないこと。言うべきことは言うということ。
そして、worsyuの2つの法則を思い出して欲しい。
1)「需要と供給の原理こそが国家を超えて信じるにたる真実である。」
2)「役人の言うことを信じるバカな政治家は、国民に大罪を犯す」

たびたびこの2つの言葉を出すが、どうだろう。これは歴史の教訓なのだ。今起きている出来事のほとんどはこの法則に照らし合わせれば答えが出てくる。
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by worsyu | 2012-08-11 11:25 | 時事ネタ | Comments(0)
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