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小野田寛朗

最近、小野田寛朗氏の動画を見て感銘を受ける。
ものすごい人である。日本軍人の鑑と称される人である。
しかしながら、インタビューから受ける印象は、自由人であり、巧みに自分の生きる道を探し、環境を整えて支配する能力に長けた人という風に見える。
軍国主義に凝り固まった人ではない。それは生い立ちを見ればわかる。

和歌山県の県議の三男として生まれる。
早くから親に反発。独立心が強い。剣道は県内優勝の腕前。学業の方は普通だったらしい。
17歳で中国へ。商社マンとして租界で青春時代を過ごす。召集令状が届く。中国語等の才能を見出され陸軍中野学校へ。
すでに戦争は末期。終戦前の1944年12月31日にフィリピンルバング島へ配属。アメリカ軍の艦砲射撃を受ける。そして終戦。多くの日本軍兵士は投降。しかし、小野田氏は命令解除の知らせを受けていないので続行することになる。
つまり、彼は、日本が一旦は負けることは織り込み済みなのだ。彼らの中でのストーリーでは、日本は負ける。そしてアメリカ軍による傀儡政権が誕生する。しかし、機を見て日本は内戦を起こし反撃に転じる。アジアの蜂起が連動して起きる。

小野田氏はその後29年間、フィリピンにおいてフィリピン軍と130回以上もの戦闘を繰り広げている。その間、一人は負傷し、投降(1950年)。そして二人目は戦闘で死亡(1954年)そして3人目も戦闘で頭部を打ち抜かれ死亡する(1972年)。小野田氏はとうとう一人で戦うことになる。
度重なる投降の呼びかけにも応えず、ゲリラ戦を続ける。
しかし、1974年、一人の冒険家-鈴木紀夫氏(1986年ヒマラヤ遭難)が単独で小野田さんに会いに行く。そこで接触に成功。上官による命令解除があれば任務を辞める意志があることが確認される。
そして、日本に帰国することになるわけだ。
その際、フィリピン政府は戦闘行為をしていたことは戦争中であったということを認めマルコス大統領は「立派な軍人」と称えた。恩赦で帰国が許された。
帰国した小野田氏は日本中からヒーローとして迎えられた。特に戦争経験のある人たちにとっては軍神と崇めたくなる存在であっただろう。

帰国後のインタビューである記者が「いっしょに戦っていた小塚さんが亡くなって投降は考えなかったのか?」という質問に、「却って復讐心が高まった。目の前で30年もの戦友を殺された口惜しさなんてものはない」と憤怒に満ちた声で答えている。私も思わず涙がこぼれた。

その後、次兄を頼ってブラジルへ移住する。
近年の活動は子どもを対象にしたサバイバル塾や講演活動。そして右翼系の活動家という面も持つ。
わたしは、小野田氏の根幹は負けず嫌いなところ-反骨精神だと思う。
それは権力や社会常識に対しても反発心が強い。また、与えられた環境の中で自分の生きる道を見出し、絶えず努力をし、研究しつくす能力が際立っている。向上心をもってやり抜く。妥協しない。そして、筋を通す。

彼は超人に近い。宮本武蔵のような極める達人のような気風がある。独立自尊、不撓不屈(ふとうふくつ)。彼の言葉にはニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」のごとき輝きがある。

本来であれば、もし、彼が終戦後、すぐ日本に帰っていたら、会社の社長になっていたことは疑いない。おそらく、それなりに大きな会社になっていただろう。

彼にとって失われた30年はあまりに長い。それを嘆いてもしかたがない。彼は別の道を歩み、成功者となった。今や日本はおろか、世界に影響を与え続けている日本人の一人である。
だから、今の彼の右翼的な発言を聞いていても、彼の中の筋を通すという面。そして、与えられた環境の中で自分を生かす術という面等の彼の性格面での発言であって、理屈としてのリベラルな面は表現されていない。
なぜなら、本質としての彼はスパイだからだ。心は日本に捧げたのだ。表層の部分で見出されるものは真実ではない。

しかしながら彼が死しても、彼の言葉は生き続ける。私たちに勇気を与えてくれる言葉だ。人生に悩む青少年諸君は一度覗いてみたどうだろうか?生きるヒントがあるよ。
言葉の裏には壮絶な経験があるわけで、そこから生まれ出た言葉は重い。

この人の映画を作ってみたい。
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by worsyu | 2012-10-03 12:02 | ひまネタ | Comments(0)
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