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宮崎駿の美学

まるで小津の映画を見ているような感覚だった。
または、黒澤明の「夢」に通じるものも感じた。あそこまで自己顕示欲は強くないわけだが。
昔の日本の風景がそこにあった。実写やCGでは表せない時代の空気をそこに感じた。
宮崎の遺書を受け取ったような気分だった。

この映画が作り出されたのは東日本大震災が起きる前からだ。時間が過ぎ、社会の風のにおいが少しずつ変わっていくに連れてこの映画の意味も見方も変わってくる。この先、10年、20年して、再びこの映画を見て、日本人は何を思うだろうか?
50年、100年経っても、見続けられる映画というのは幸せである。
アニメの芸術としての可能性をここまで引き上げた宮崎氏は、日本を代表する芸術家であり、巨人であることは間違いないだろう。
アニメが子どものものであったディズニーから始まり、日本では手塚がその中に文学性を持ち込んだ。既に日本では漫画が大衆文化として親しまれており、そこにアニメが入り込めば当然、大人の観賞にも耐えうるものが生まれてくるのは必定だっただろう。

さて、宮崎氏が取り上げた時代は、大正デモクラシー、関東大震災、世界恐慌、そして、世界大戦。大きな黒い渦に吸い込まれるように日本が転げ落ちていった期間である。

現在の日本と比べるとなんとも言えない時代の空気に押しつぶされそうになる。息苦しくなる。転げ落ちていく恐怖感を漠然と抱く。
しかし、当時と現在との決定的な違いは、みんな豊かな生活を維持できているということだ。そして、教育水準も高い。娯楽もいっぱいある。世の中不況だというが、別に生きていければいい。今、欲しいものは、特に無い。当時の日本は貧しかった・・・・・

関東大震災が起きた時に、殺された人々がたくさんいた。なぜ、そんなことが起きたのか?パニックになって、疑心暗鬼になり、一時的に無政府状態になり、一部の血の気の多い人たちが起こしたのか?今の時代では考えられないし、想像力を巡らしてもそこに自分の身を置く事ができない。

「風立ちぬ」で登場する主人公の男女の家柄は地主と伯爵である。それぞれ、東大出のエリートエンジニアと伯爵令嬢という設定である。
物語の縦糸は堀辰雄の同名小説に近い。私小説風な語り口で描かれた世界は、物悲しく、どこか浮世離れした物語である。設定からして日本の上流階級たちの悲恋物語である。
当時、結核と云えば死の病である。田舎なら、離れの部屋に閉じ込められ、近親者であろうと子どもらは近づくことも出来ず、周りからは厄介者のように扱われ、栄養失調で死んでいったのがほとんどだろう。
この物語のようにトーマス・マンの「魔の山」のようなスイスのローザンヌみたいな高級リゾート地が日本の軽井沢にも小規模ではあれあったことは確かだろう。

同じく縦糸としてらせんのように流れていくのがゼロ戦の設計士-堀越二郎の開発物語である。実際の堀越氏にこのような恋のロマンがあるわけもなく、ここはフィクションであろう。
ゼロ戦の開発物語は年配の方、もしくは多少でも興味があった男の人ならご存知のエピソードばかり。それでも、ユンカースやカプローニが出てくるあたりが宮崎さんらしい。

彼ら、エンジニアにとって性能と同時に美を競い合う姿が素敵だと思う。そこには、宗教や思想、信条、政治的な思惑は何も無い。ライバルであると同時に同志でもある。
芸術の分野は、これとは少し違う。主観が入るから評価が分かれる。今回の「風立ちぬ」も評価が分かれるところだろう。

私は、宮崎駿の遺言のように思え、受け取った。

ちなみに、菜穂子の嫁入りの場面あたりで不覚にも止まらなくなってしまった。これはずるい。
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by worsyu | 2013-07-22 15:46 | ひまネタ | Comments(0)
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