まず阿南を斬れ

阿南陸相(陸軍大将)のことについて。
年配の方はご存知であろう。終戦時、最後の陸相として、日本を平和的にポツダム宣言受諾をさせた功労者として称えられている。
阿南 惟幾(あなみ これちか、と読む)1887年2月21日 - 1945年8月15日。
阿南をあなみと読んだり、あなんと読んだりするが、いずれにしても、平安時代から続く大神一族の苗字として認識されている。また、名が惟幾(これちか)である。なかなか普通の人は読めない。これは、源平の戦いの時に活躍した奥豊後の武将緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)からきているものだ。おがた姓の発祥は古の緒方町-緒方の庄の豪族である、この三郎惟栄(さぶろうこれよし)から始まるとされている。
阿南陸相の父親は阿南尚(あなみ ひさし)1845-1920。竹田市玉来の出である。秋月の乱で乃木希典と知り合い、西南戦争では山形有朋と知り合う。
また、廣瀬武夫は尚よりも2周りほど年下で、惟幾(これちか)が18歳の時に日露戦争で戦死している。その後、彼が軍神として崇め奉られるようになると、いっそう郷里の英雄として誇らしく思ったことは想像に難くない。

太平洋戦争終結時に大分県出身者、及びつながりのある人が多く活躍したということを大分県の人は知っているだろうか?
近代史を教えることはタブーとされてきた戦後において正当に評価されていないことは確かである。
今の日本があるのは、大分県出身者のおかげといっても良い。
8月15日は阿南 惟幾(あなみ これちか)の命日である。そして、9月2日は重光葵(しげみつまもる)がポツダム宣言を受諾し、サインした日であり、正式に敗戦となった日である。1945年の夏は大分県人にとって多くの日本人が逃げ出した時に、最後まで逃げず私欲を捨てて日本民族の行く末を守ろうとした郷土の偉人たちの夏であったと言える。

あなみと打っても穴見と出てくる。あなんと打つと阿南が出てくる。これは、世間一般に、阿南陸相が「あなん」で通っているからだろう。そして、その理由が昭和天皇が彼を「アナン」と呼んでいたからだと言われている。

彼は基本的には軍人である。陸軍の総意は徹底抗戦であった。しかしながら、彼は、冷静であり、私心を捨てて国家の難局に対峙する決意を持っていた。その大役を引き受けた時点で我が死をもって多くの軍人の命を救うことを任としていたと思われてならない。

陸軍の総大将である以上、ポツダム宣言を受諾するか否かでは、国体の護持-天皇制の維持の確約の保障をめぐり、本土決戦を唱える。
しかし、昭和天皇が「わが命よりも日本国民の命を多く救え」とのご聖断が出た後は、自らの抗戦の主張を下げ、陸軍大将として、関係書類の全てに承諾のサインをした。
そして、関係局の幹部を集め、次のように言ったという。
「今日のような国家の危局に際しては、一人の無統制が国を破る因をなす。敢えて反対の行動に出ようとするものは、・・・
まず阿南を斬れ。」と。

彼の評価はいろいろあると思うが、この一言に尽きる。
彼は彼なりに誠実に自分ができる最善最大の方法でこの難局を収めた。右とか左とか関係ない。日本民族の存亡が掛かったこの瞬間において彼のような人物が居た幸運に我々は感謝しなければならない。

最後のサムライとも称されるが、そんなものではない。しかしながら、彼の最期は、割腹自殺である。しかも、介錯を固辞し、朝方まで苦しみ悶えての末期であった。
彼は自らが贄(にえ)となることで陸軍の想いを体現したのだ。
この報に接し、日本の兵士たちは瞬時に戦うことを止めることになったのだ。

さらに付け加えれば、天皇を利用せず、誠心誠意、臣として仕えたのが大分県人であったと言える。それは壬申の乱の大分の君から既に始まっている。
これは継続していただきたい。
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by worsyu | 2013-08-26 15:25 | 地域ネタ | Comments(0)
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