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愛すべき自己

去年の年末は安倍首相の靖国神社参拝で、国内外で賑った。
この靖国神社の問題はいろんな問題を孕んでおり、いかようにも問題提起できるし、解釈もできる。

私は、つまるところの話をしたい。
結局、先の大戦の最大の責任者は、日本では昭和天皇であったということは紛れも無い歴史的事実なのだということなのだ。
これは、現在、70歳以上の人たちは皆思っていることだろうし、認めざるを得ないことなのだ。

実質、開戦時、昭和天皇は傀儡状態であり、お飾りでしかなかった。政治的権力は軍部が握っており、天皇は権威のようなものでしかなかった。(今のタイ国の状況を見れば理解できるだろう。タイも日本と同じように、王族は象徴としてのみの存在にならないと、政権は安定しないだろう・・・)従って、戦争責任としては、実質上は無いに等しいものだっただろう。しかし、憲法上では最高責任者-統治者として明記されている。今の北朝鮮を見れば理解できるだろう。

戦後、アメリカは日本を統治するために天皇制を維持することにした。それは、今後、永遠にアメリカが日本を支配下に置くことを日本側に認めさせる人質-保証のようなものだった。天皇の権威を保証する代わりに、政治的権力と結びつかないように、平和憲法を作るように仕向けた。その際、靖国神社の問題も出たが、国の保護を受けないということと、憲法で十分と思ったので、問題にしなかった。

さて、戦争犯罪人とされた人たちは、天皇の名のもとに戦い、死んでいった多くの兵隊たちと同じと思えないことも無い。死んでしまえば罪は消える。贖罪はなされたと思い込みたい。それは、遺族たちの思いであっただろう。罪(濡れ衣を着せられて)を背負って処刑場の露と消えていった人たち。それを哀れむのは人の情として理解できないわけではない。本当の罪人は天皇であるからだ。
しかし、彼らは天皇に罪が及ばないことを知り、喜んで死に臨んだ。自分たちの死が天皇の身をお救いしたという満足感さえあっただろう。
「天皇陛下万歳」という叫び声を上げて死んでいった多くの兵隊と同じ気持ちだったのかも知れない。
その頃の人たちは天皇のためなら命は惜しくないと思っていたのだ。信じられないだろうが。

年を経て、遺族たち、又、ナショナリズムに溺れたい人たちの中では、故人の想いとは別に、悪いことをしたわけではない、という想いが強くなっていく。名誉回復を望む気持ちが起きてくる。更に、国を想う気持ちは尊いという気持ち。更に、歴史の再評価、再検証を望む声が大きくなってくる。(もちろん、彼らの中で、天皇の為に死ねる人など一人も居ない。これは確かなことだ。)

戦後、ナショナリズムを謳うことは、どこか罪深いことと思われていた。だから、無国籍的な文化が氾濫していたのだ。しかし、この空気を一変するある出来事が起きた。
それは、サッカーW杯である。

君が代を堂々と歌い、日本という名前を叫び、勝てば喜び、負ければ悲しむ。これはまさしく戦争の擬似体験に近いものすらある。こんな楽しいナショナリズムを忘れることなどできない。もっと楽しむために、もっとナショナリスティックになっていいし、気に入らない外国をもっとけなしてもいいんだ。煽ってもいい。これまで押さえ込まれていた感情が一気に爆発した。

さて、ここまで書いてきて、突然結論を言う。未来を見るならば、未来をデザインするならば、偏狭なナショナリズムに漬かっていてはいけないということだ。
一番大切なことは、自分が何をやりたいか、であり、何を望むかであり、そのために何をなすべきか、なのだ。自分を大切に。家族も大事、子どもも大事。でも、自分自身が一番大事。そのために、愛すべき自分になるために、勉強し、働き、善行するのだ。
私は言いたい。自己愛こそが、隣人愛にも勝る。
それが原点だろう。

ラブトリニータは自己愛の延長になければならないものだ。そのために、われわれは努力してもいいんじゃないかな。

因みに、私は、近年、春日神社に初詣に行くことにしている。
by worsyu | 2014-01-24 12:59 | ひまネタ
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