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ARTの暴力

アート、特に現代アートとは何かという根源的な問題を我々に突きつけられた思いがする、今回の事件。
作家本人の裸体をそのまま型取り、鉄を流し込んでできたものなどが本当に芸術と呼べるものなのか?

かつて、アートと我々が呼んでいるものは、常に、時代に先駆けていたし、大衆を向いた自由や思いを志向していたように思う。そこには、確かに「美」というものが存在した。

典型的な例が、マネの「オランピア」だろう。当時のフランスの宮廷画壇との対決を明確に示した作品であり、印象派の産声が上がった代表作品である。
そこに描かれている女性は、娼婦である。当時のモラルを破壊するセンセーショナルな作品であっただろう。黒人の下女と黒猫が傍らに描かれている。現在、オルセー美術館で展示されている。
ここには、日本の浮世絵の影響と同時に、江戸時代の日本の大衆文化やその欲望と発露と作品の関係性などが見て取れる。一般庶民の女性の裸体を描くことはタブーではなくなったのだ。一方、日本においては、戯画としての自由はあったが、そこに到達するには、まだ時間が掛かった。

しかし、現代アートと呼ばれるものは、タブーを壊すことのみが目的化されていて、美の追求を停止か、無視しているように思える。ほとんど意図的に醜いもの、無価値なものを提示して、これが芸術の最先端だと言わんばかりである。

これらの運動は、大衆には擦り寄らない。上から見下ろすように、暴力的(神の啓示がごとく無神経)に我々のモラルを壊してしまう。

かつて、マスコミが権力を持ち、社会のモラルを壊していったように、今やネットが制限の無いモラル破壊を実践している。それを上手く操作できる者が権力を得る社会となったのだ。


アートは、庶民の美的感覚を無視する。景観を壊し、伝統的な慣習や民俗的な行いを壊す。それこそが目的と化しているのが現状だ。
パフォーマンスとしてのアートは、そうした問題提起をすることで社会に波紋を作り、社会を見直すきっかけとなることがある。
ただし、それはパフォーマンスとしてであり、作品としての価値は無いに等しい。


もし、国東の千燈地区にその銅像が建ったとしたら、その地域は、モラルハザードを許した地域として、一般の外部の人間は近寄らなくなるだろう。少なくともロングトレイルのコースとしては最悪の状況となるだろう。悪趣味の方は別にして。
それは、大衆の美的価値が権威の美的価値に負けた象徴として、「国東の恥辱」の文化財として鎮座することになるだろう。


アントニー・ゴームリー氏の裸体を見て何を感じよというのだろうか?
ダビデ像のごとく崇められたいのだろうか?
そこにはイギリスのユーモアしか見出せない。
つまり、文化的に未熟な人々-異教徒たちがイギリス人(ヨーロッパ)に憧れている様を、そして、権威にひれ伏した姿を表現したかったのだろう。
ネットではそう取られるだろう。

私は断固設置反対である。

 

 


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by worsyu | 2014-02-19 11:24 | 地域ネタ | Comments(0)
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