日本とトリニータ

昔、「人生に必要なものはすべて幼稚園で・・」なんて本がありました。なぜか内容はあまり覚えていないのですが、たぶん、幼稚園レベルのしつけがあれば全て上手くいくということだと思います。

さて、それでは、現在の日本は?
幼稚園レベルで考えるというのが、正解なのかもしれない、と思った。そして、このレベルが永遠に続くのだ。

我々は、小学生になりレベルの違う子どもともいっしょに勉強するようになる。ここでは自分の価値観などというものはまだ未熟である。だから、先生の価値観-学校の価値観に従ってしまう。権力には抗えない。理論的にも体力的にも。
しかし、違いに少しずつ気づいていく。

中学生になると、勉強の出来不出来による格差が広がっていく。それは価値観が形成されていく過程でどうしようもないものだ。それを無理やり押し込めようとするか、ガス抜きをしながら、ごまかしていくか・・これは先生側の論理であって、組織論でしかない。
不良や馬鹿は、ここで形成され始める。

高校になると、成績別に振り分けられたわけで、比較的価値観が近い連中と生活ができるようになる。それでも、その学校の価値観の範囲でのみの自由でしかない。

大学に進めば、より、自分の勉強したい分野のみに集中できる環境になる。ここで初めて、自由に勉強でき、自分の欲することができる自由な時間が持てる。この生活がいつまでも続けばいいのだが、それは、社会に出るまでのバカンスに過ぎない。

社会に出て、企業に入れば、そこで待っているのは、弱肉強食の共産主義的組織なのだ。ただし、ここで行われているのは、競争であり、営利行為である。利益追求のための組織活動なのである。
本来ならば、個人の能力を最大限発揮させるための環境整備をし、無駄なものを省き、会社からの干渉は、企業活動のみに限定され、個人の思想信条や価値観、私生活に踏み込むことはしない。そういったものは、利益を生まないからだ。

しかし、日本においては、組織に活力を与えるためならば何でもする。個人は犠牲になる。つまり、全体主義なのだ。

これは、社会主義、共産主義?否、国家資本主義とでも呼ぶべきものか?いやいや、村(ムラ・ソン)資本主義なのではないか?それとも、幼稚園資本主義とか。

どうでもいいことだが、問題は、このいびつな日本的な資本主義社会という組織を維持するために、犠牲者が出ていないかということだ。それは正義なのか、ということだ。

現実に生活していく上で、国家のことなどどうでもいい。犠牲者が少なければ、自分に痛みが来なければ、その社会は良い社会だということになる。
果たしてそれでいいのか?
未来に対する責任というものは考えなくていいのか?

幼稚園児は、先生の言うことを聞いていれば良い。言うことを聞く良い子と呼ばれる。喧嘩はしない。喧嘩をしたら、両成敗。善悪の判断はしない。友達をいっぱい作る。思いやりのある良い子と呼ばれる。
でも、この幼稚園は、激烈なる競争社会の上に浮かんでいるんだけど・・・・

競争に勝ち続けるには、良質の人材、良質の物、膨大な金が必要。それらをうまく組み合わせれば、良い結果が得られるはずだ。これが道理である。

金は無い。良い人材も集まらない。物は不足している。それでもやり方次第で良い結果をもたらしてほしい。これは精神主義。個人が組織に犠牲になる典型的な形だろう。
このやり方は、一瞬、一時的には良い結果が得られても、続かない。
とにかく金だ。
金が無ければ信用で借りればいい。10年でダメなら100年でいい。とにかくどこかから金を集めてこい!
これも同じこと。(無ければ印刷させろ!とやった人もいるが・・・・)


大分トリニータは、苦い経験をしている。だからわかっている。金をいかにして集めるか。それも、永続的に。祭りを続けさせるためには、その祭りの意義を高め、説明し、それによって、得られるものの価値を高める努力が必要だ。
ただ金が集まればいいわけではない。それでは意味が無いのだ。だからNOとしたのだ。

私は、大分トリニータは、清く正しく美しくあるべきだと提言した。吉武イズムを追求することで、他クラブと差別化を図り、正しくサッカーを愛し、遊び、楽しむ。相手を尊重し、審判に服従し、そうした中で自己実現をしていく。個人も組織も国も正しく成長していく。

これが、サッカーを通じて日本を変える。大分から日本を変えることにつながると思うのだが・・・・・

日本を救うために大分トリニータを応援しよう。

なんでそうなるの?   つまり、そういうことなのだよ。
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by worsyu | 2014-08-09 11:03 | ひまネタ | Comments(0)
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