野上弥生子-偉大なる巨人

「花子とアン」がいよいよ大戦争に突入してきた。

戦争という巨大な壁に遭遇した時、人間はどう判断し、どう行動したか、特に、日本の文化人-知識人たちがどう生き抜いたか。彼らの生き方が、結局、戦後の日本と今の日本を形成することになったと言える。

それでは、村岡花子はどうだったのか?
彼女はその他多くの女流文化人と同じく、戦争賛成派に属した。積極的に参加したわけではないが、ラジオを通じて戦意高揚を幼少期の児童に働きかけた行為は十分加担したといっていいだろう。

彼女が特別というわけではなく、「青鞜(せいとう)」の平塚たいてうも「昴(スバル)」の与謝野晶子も、この戦争を応援した。他にも大勢の文化人がこの大戦を讃える檄文を寄せた。
女性作家たちがこの大戦に与えた影響は小さくない。銃後の家族-とりわけ主婦たちによって形成された感情的な敵愾心や女性特有の残虐性が日本人に形成されたことを指摘する論者は少ない。
識者と呼ばれる多くの文化人たちは、女性は平和主義者であると決めつけ、戦争中に起きた女性の手による間接的な非人道的な考えや行為を不問にしているのは、残念なことである。

もちろん、彼ら、彼女らは、現代とは違い、社会的な身分は低い、ペンのみで生活していくことが難しかった時代である。そこで背中に剣を突きたてられては、飲むしかなかったともいえる。

ドラマの村岡花子がラジオ放送を辞めたいと言った時、「ごきげんようを待っている子どもたちがいる」といって引き止めたNHK。しかし、この言葉の裏にあるのは、騙すためには甘言が必要なのだということである。そのことは、当然村岡もわかっていたはずである。

文化人-文学界がこぞって戦争に加担していく中で、それとは距離を置く人も居た。

野上弥生子である。

戦争反対と声高に宣言すれば、牢屋に入れられる。共産党に属していれば、官憲により拷問を受け、殺される時代である。

野上弥生子は、臼杵の出身である。生い立ちを書くと長くなるので端折る。
あのフンドーキン醤油の長女として生まれた。15歳の時に上京。当時、女性で高等教育を受けるということは非常に珍しかった。
その後、同郷で英語を教わっていた野上豊一郎(英文学者)と結婚。豊一郎が漱石門下であった縁から、小説を漱石に見てもらい、そこで、作家としての心得を得ます。

「文学者として生きよ」

これが漱石から与えられた道だったのだ。

彼女は、1937年(昭和12年)の新聞の年頭所感に「どうか戦争だけはございませんように・・・」と書いた。当時、かなり問題発言になった。
しかし、彼女は戦争反対という意志を示したものの、それ以上の目立った行動はしなかった。それ以上やれば自分の地位や生命のみならず、家族や親せき、関係者にも災難が降り注ぐことを知っていたからだ。

彼女は戦禍が激しくなると軽井沢の山荘に籠り、執筆活動に専念する。こうしたことができるのも、夫豊一郎の存在がある。恵まれた環境の中で、しかも、あらゆる伝手を使って自分の信条を崩すことなく生き延びたしたたかさがある。
達人である。

宇野千代が「私が畏れ、仰ぎ見るのは、天皇と野上先生の二人だけ・・・」と言わしめた。(おそらく、この言葉を聞いたとしたら、「別に宇野千代ごときに畏れられても詮無きこと、と笑ったであろうか・・・)
それは、明治、大正、昭和を生きた知識人としての女性の生き方の範を示したからだろう。

野上弥生子本人の日記には、「一葉よりは或る意味、ずっとよい仕事をしたつもり・・・」と書かれているらしい。私は次の1000円札の候補として野上弥生子を挙げたい。(おそらく、「漱石先生と同じ場所に座る度胸は私にはありません」とでも言われそうだが・・・それならば一葉より上の5000円でどうでしょうか、と言いたい。それだけの価値がある。これからの我々が彼女を再評価することで可能となるだろう・・・)

大戦という巨大な壁をしなやかに乗り越えた巨人-野上弥生子。

1951年(昭和26年)初夏。法政大学女子高校(当時の校名は法政大学潤光女子中・高等学校)で生徒に訓示した中で、

「女性である前にまず人間であれ」

という言葉が有名です。今もなお輝きを放っています。
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by worsyu | 2014-09-03 11:45 | 時事ネタ | Comments(0)
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