大分に昔、堀悌吉(ほりていきち)という人がいた。杵築出身である。
この人は太平洋戦争の時の山本五十六の心の友であった人である。 とにかく日本海軍始まって以来の秀才として、その名は海軍中が広まっていた。 困ったことがあったら堀に聞けば解決する。 牧歌的な雰囲気もある初期の海軍の中で、堀の才能は皆から尊敬され、愛され、また、頼りにされた。 この人は、戦争が始まるまで、昭和初期の軍縮会議まで表舞台で活躍した人です。 それは、あの日露戦争の旗艦であった三笠に搭乗し、東郷と共にあの場にいたという。若い頃から華々しく、日本海軍のホープとして期待され、それにまた応えていた。 彼は、フランスへ留学し、語学だけでなく、文化や芸術も理解しようと、必死になって図書館に通い、また、舞台芸術や美術館にも通ったそうである。 フランスの個人主義は、どこか大分県人の気質とも相通じるところがあったのかも知れない。 彼は軍縮会議に同行し、条約派(海軍省側)-穏健派とこれに反対する艦隊派(軍令部側)-強硬派とが対立する中、徹底した平和主義者として持論を展開した。つまり、海軍とは、平和を維持するために必要最小限の力を保持するべきで、分不相応に増強したり、ましてや、暴力で地域を獲得するなどは言語道断という考えである。 正義の戦争などはあり得ないと言ってはばからなかった。 これは専守防衛の考えであって、当時としては極めて珍しい。理屈に合わないことに身を投じることを恥じた。 「お前は口を開いても、世界と大分のことしとしかしゃべらんなあ」とからかわれると、 「郷里がまず大切なこと。郷里のことを解決できずに、世界は語れない」と言ったそうだ。 同感である。とことん、郷里のことを考えること、ないがしろにしないことで、初めて国家のことを語ることができる。郷里を大切にしない言論は無益である。 堀は、その後、海軍から追放される。「大角(おおすみ)人事」である。 心友山本五十六は、堀追放の報に接し「巡洋艦1個戦隊と堀悌吉とどちらが大事だと思っているのか・・・・」と憤慨したという。 当時の海軍の中でも、良識的な人たちは、この戦争に勝ちめが無いことはわかっていたが、一方で急進的な考えを持つ人たちは、彼らを抵抗勢力とみなした。 軍隊を追われた堀のその後は、航空機会社の社長をやり、また、戦後は造船会社の社長をやったりであった。 彼は、戦後、もし、自分が軍の中枢の要職に付いていたならば、何かしらもっと上手くやれたのではないか、と述懐したそうである。 不遇の提督と称されるが、彼の考え方は戦後日本のさきがけとなっている。 こういう人材を大分県から排出していることは偶然ではない。 近年、山本五十六の心友という位置づけでしか語られないが、彼がワシントン軍縮会議で果たした平和への想いと軍の理論はもっと評価すべきであろう。 少なくとも、大分県人は彼を誇りに思ってほしい。
by worsyu
| 2015-02-14 18:28
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