エリートの狂気と危うさ

日本を目の敵にする中国の若者たちを見て、みなさんはどう感じるだろう。まあ、マスコミは、センセーションさを喜ぶから、特集を組んで煽りまくる。しかし、我々は民主主義に慣れている。国家というものの危うさと意味の無い共同体意識の幻想に囚われることは少ない。
中国も韓国も、北朝鮮もそうだが、エリートというものが存在する。日本では本当のエリートはいるのかも知れないが、あまり必要性はない。もし、東大の学生が存在しなくなったと仮定しても、他に人材はいっぱいいる。それが、中国や韓国ではできない。特に中国では法律よりも権力者によって国がころころ変わる部分が大きい。民度が低いということはそういうことを指す。
小学校教育を比べてみれば一目瞭然。日本の小学校教育のレベルの質は高い。たとえば、中国ならば、学級委員になるのは親が中国共産党の幹部であるとか、その地域の権力者だとか、医者であるだとかいうのがほとんどだ。というか、当たり前のことだ。それ以外の子供がいくら勉強ができるとか、クラスのみんなからの信頼が厚いとか言っても、学級委員長になることはない。日本では、東京都(差別主義者の石原都知事のいる)などの大都市では中国人や韓国人の子が委員長になることも珍しくない。外国の子供が編入してきたら、日本の小学校だったらみんな仲良くするだろう。なじめない子供がいたら、先生が彼らの国の文化を尊重するようなカリキュラムを作って、彼らの人権を尊重するだろう。違いを認めて、その上でも仲良くする知恵を現に今全国の子供たちに教えている。
中国や韓国の小学校の授業を見れば、彼らが小さい頃から差別教育を受けていることを感じるだろう。そんなかわいそうな世界の中で認められていない教育で育てられたエリートのやることは、戦前の日本の学生レベルであるといって過言ではない。頭がよく、弁も立つかも知れないが一番大切な部分が抜け落ちている。自分が国家を動かしていると勘違いする。そしてやがて、自分が国家そのものだと錯覚する。
人を差別しているとその差別している人とは仲良くなれない。その必要がない人はそれでいいかもしれないが、それはかわいそうなことだ。
石原都知事を例に出して申し訳ないが彼の友達も偏っているだろう。そんな人間を長として認めている東京都も危ういものだ。しかし、だからと言って東京が変な方向に行くことは無い。民主主義の国、日本はそんな人間がトップにいても修正可能なシステムを持っているからだ。
図らずも石原都知事がよく使う民度の高さとは東京都そのものを例に取ればよくわかる。民主主義の達成されている共同体とは、そういうことを指しているのだ。
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by worsyu | 2005-04-18 02:27 | 時事ネタ | Comments(0)
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