アメリカの報道と市民

マイケルジャクソンの少年に対する性的いやがらせや虐待などの罪を問われた裁判がカリフォルニア州サンタバーバラ郡地裁で行われた。陪審員団の評決は完全無罪となった。
陪審員団の顔ぶれをみると、有色人種で固めたというわけでもなく、OJ・シンプソンの時よりも公平であったのではないか。
陪審員制度というものは必ずしも正しいというわけではない。しかし、市民が市民を裁くという形式は、我々自身が社会を形成するということの意味を教えてくれる。成熟した市民社会でなければ成しえない制度だ。
もちろん、これで疑惑が晴れたというわけではない。真実はわからない。しかし、マイケルの受けたダメージは大きい。再び我々の前にスターとして現れることはもうないだろう。

もうひとつ、米軍を脱走して北朝鮮に亡命した、曽我さんの夫であるジェンキンス氏が、母親の住むノースカロライナ州に帰郷し、40年ぶりの再開を果たした。しかし、地元では、「裏切り者」「犯罪者」と非難する人々も多く、アメリカ側の報道も至って冷ややかなものであるという。

この2件の出来事は、アメリカという国が感情と理性の使い分けが絶妙で、さすがであるという印象を持った。人それぞれ、犯罪に対する考えとそこから湧き出る感情は違う。しかし、感情は感情として、感情に流されず、理性で判断しようとする市民たちの姿を見る時、我々日本人やアジアの人々との意識の差に愕然としてしまうのだ。
最近の日本だったら、こういったくだらないニュースを大々的に報道する。今や日本にジャーナリズムは無い。あったとしてもわずかに生息しているだけだ。多くは、芸能記者のやり方を見様見真似で真似て、後塵を拝しているだけだ。理性と感情の住み分けが出来ず、大衆に迎合することでしかイニシアチブを保てない。情けない。
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by worsyu | 2005-06-15 18:07 | 時事ネタ | Comments(0)
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