カテゴリ:地域ネタ( 144 )

癒しのラーメンを求めて

先日、久しぶりに福岡へ遊びに行った。

福岡空港の駐車場がいつの間にか5階建てのタワーになっていた。

夏休みで親の田舎に遊びに来ていた東京の子供が、「福岡は田舎だから暑いなあ」とほざいていた。
彼にとっては、田舎=暑いところということになるのだろう。
いわゆるクソガキである。まあ、親の教育がなっていない。福岡に行くとよくいる。しかし、こいつは福岡の親に育てられた東京っこである。だから同じか。

夜、博多と名のつくラーメン店でラーメンと餃子とチャーハンを食べた。

大分ではよく行く。ここも同じように美味しいのだろうという安心感から入った。

まず、麺は大分よりも固めである。「バリ固」などと頼もうものなら本当に鉛筆の芯が入っているのか?と思うくらいの麺が出てくるから注意。「固め」でも思っているよりも硬い。

問題は、チャーハンだ。
これはまずい。おそらく、ご飯の炊き方が悪い。水気が多すぎる。米が悪いのか?油が足りない。じとじとしている。ねぎ油でコーティングされて、ピカピカしているのを想像していたのだが、その光沢は無く、蒸された感があった。ねちねちしているのだ。舌の上で転がる快適さが無い。

これは炒飯じゃないね。

断じて言う。福岡のチェーン店でも、大分の方がおいしいということはある。

そろそろ、ここも卒業か。ちょっとあっさり感のある、大分に昔あったようなラーメンも探してみようかな。物足りなさもあるが、懐かしさがある。所詮ラーメンだし。

炒飯、餃子とセットで初めて評価できる。

まるで蕎麦のように。ラーメンもこの3つが揃ってはじめて形となる。

私のスタイルではそうなる。

そろそろ、自分に合ったラーメンを探そうかな。
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by worsyu | 2014-07-23 15:04 | 地域ネタ | Comments(0)

白蓮と福岡の確執

「花子とアン」を見ている人も多いと思う。
ドラマでは実在の人物をモデルに書き上げられているため、実際とは違う描かれ方をしているところもあるだろう。
しかし、それは所詮ドラマだからであって、調べれば、実際の人物評価は違ってくる。それを真に受けてドラマ自体を批判することには、ちょっと、民度を疑う。

以前、私は、「博多よかばい物語」の感想を書いたが、未だに結構、読まれているようで、福岡県人からの批判が多い。
多くは、「福岡県人といってもいろいろある。そんなに男尊女卑の気風は無い。大分県は別、というのは、ちょっとおかしい」といったところだろう。

「花子とアン」に出てくる主人公村岡花子の腹心の友である(柳原)白蓮と、筑豊の炭鉱王-伊藤伝右衛門とのやりとりが面白い。
面白いというのは、そこに脚色があり、誇張があり、カテゴライズされているからである。

伊藤伝右衛門は知る人ぞ知る、福岡県の偉人である。福岡の財界を盛りたて、また、学校教育にも関心を示し、寄付をし続けた人で、立派な人、というのは福岡県民の、昔を知っている人の評価であろう。それに対して、白蓮は女の風上にもおけない、鼻もちならない奴!ということになるのである。

ここには、「博多よかばい物語」の田舎者の楽観主義と男尊女卑観を持っている福岡人と都会風を吹かして人の弱みをあけすけに指摘して、男をやりこめる横浜女の構図がぴったり当てはまる。

おそらく、現代の福岡人の感想は、地域差、年代差、何代目かの違いがあるだろうが、3つに分けられるだろう。
1)時代錯誤であり、笑える。炭鉱夫からの叩き上げの伝右衛門なら、少々荒っぽいことをしても仕方が無いか。それにしても、ちょっと、誇張しすぎじゃないか?昔はあんなんだったんだ。

2)怒りがこみ上げてくる。白蓮が生意気。皇族風を吹かせて、金を使わせておいて、自由気ままに遊び、利用した挙句、恋人を作って逃避したんだから、ろくな女じゃない。伊藤さんは立派な人。白蓮を自由にさせた大腹中の御仁である。男の中の男。このドラマはおかしい。片方の側からしか描いていない。

3)あの頃の福岡県人はひどかった。金で買われた白蓮がかわいそう。自由と平和を求めて、全てを捨てて愛に生きた白蓮は、モラルを度外視したが、素晴らしい。あの時代に、自由に生きた女の一人として、その生きざまは共感できる。悲しい気持ちになる。

芥川龍之介の「藪の中」(-黒澤明監督の「羅生門」で映画化された。)を引き合いに出してみるまでもなく、人間の業によって、見方が変わってくる。
人間の根深い感情の部分での差異が事実すら曲げてしまうことがある。

白蓮は、伝右衛門の死後、講演を依頼され、小倉を訪れている。その時、逡巡したそうである。そりゃそうだろう。福岡は白蓮にとっては、禁断の地。その時、昔を振り返って、「あの時は、悪いことをした」と呟いたそうだ。

この人は、美智子妃殿下の御成婚に対しても、異議を唱えたそうである。その真意はどこにあったのだろうか。
おそらく、死期が近づき、身体が弱ってくると、頼るものを欲し、権威にすがるようになったのであろう。
結局は、世間知らずのお嬢さんだったのである。

当時の新聞(マスゴミ)は、面白おかしく騒ぎ立て、社会問題化した。やがて、小説となり、舞台化もされ、日本の上流社会の恋物語として、面白おかしく脚色された。そのことが、現在にまで続く、九州は男尊女卑の場所という偏見を生んだのだ。それを信じ込ませる材料としては、熊襲の存在や、薩摩軍の存在、等々が持ち出され、後付けされた。
この白蓮事件も九州人は野蛮人という風潮を作る一つのエピソードになったのだ。

まあ、このドラマも恋人になる宮崎は熊本出身で、13歳までいたので、多少は熊本弁訛りが出るはずなのだが。他にも福岡の新聞記者とか、なぜか、筑豊の人たちだけが筑豊弁なのも、ちょっとしたトリックがあるね。
白蓮はこの後、別府に逃げるわけで、別府は当時は温泉保養場として多くの文人画家が集まる社交場だったわけで、ちょっと違った雰囲気がそこにはあったと言えるね。そこに出てくる別府の人たちはどんな言葉をしゃべるんだろうね。大分弁の中でも、別府は少しやわらかい言葉なんだけどね。ちょっと、洗練されているんだけどね・・・・


昔、タモリが名古屋人を馬鹿にしていたが、これも他愛もないことなのだが、中には真剣に怒る人もいたかもしれない。しかし、多くは笑っていただろう。

私も、福岡人を多少ばかにしているように思われるだろうが、それも他愛のないことで、面白いからやっているだけなのだ。(同様に佐賀、熊本、長崎、宮崎、鹿児島も、崩壊アクセントの言葉や、文化の違いが面白いのでからかっているが・・・)
しかし、2)の感想をお持ちの方々にしたら、面白くないことだろうな、ということは想像できる・・・・
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by worsyu | 2014-06-23 11:06 | 地域ネタ | Comments(0)

OITAをユーロに

知り合いの子供からということで修学旅行のお土産に「長崎」と刻印されたクッキーを貰った。
「長崎」という漢字にはインパクトがある。イメージが湧く。対して「大分」と刻印されてもあまりイメージが湧かない。
「別府」だとか、「国東」だとか、「日田」とか。「佐伯」「竹田」「杵築」「中津」「由布」「安心院」なんてのもいいね。何でもいい。大分以外なら何でもいい。
「大分」はありがたみが無い。漢字のインパクトが無い。OITAの方がいい。I emoticon-0152-heart.gifOITAの方がいい。
どうせなら大分よりも豊後の方がいい。しかし、それもちょっと考えものだ。BUNGOの方がヨーロッパの歴史家では認識されている。
しかし、2002年W杯以後は違う。OITAの名の方が通りが良い。

今から450年ほど前から約40年間ほど栄えた南蛮文化の影響は今なお大分に残っている。それは、物や目に見えるものではない。観光としてアピールできるものは少ない。しかし、精神文化、感覚として受け継がれている精神性の土壌というものがある。それは、何とも言い難い不思議な感覚だ。

何となく国を信用していないし、何となく先進性を受け入れようとするし、何となくヨーロッパの文化を尊重する気持ちがある。
何となく個人主義で、何となくアウトローで、何となく音楽やファッション、踊りが好き。祭りも好き。
(白蓮が別府に逃げてきた気持ちもわかるというものだ。)

県南は言わばスペイン。県北はドイツ。国東はルーマニア?それでは日田はスイス。竹田はオーストリア?別府はイタリア。それじゃあ、大分は?フランスあたりか?・・・・適当なこと言っていますが、フムフムと頷く人もいるのでは?

ここまで書いてきて、それでは、これからの大分はどうあるべきかが見えてきた。つまり、ヨーロッパ(ユーロ化)化なのだ。

というわけで、まずは、ヨーロッパの車を購入する計画を考えようと思う。もう、国産車なんて乗れないね。(乗ってるけど)

燃費がいいとかそういう問題じゃなくて、最近はダサく思えてきて、どうもだめなのだ。
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by worsyu | 2014-06-12 10:43 | 地域ネタ | Comments(0)

トリ4位。サッシー2位。

まずは岐阜戦。
後半からバテバテの岐阜。早く1点入れろ的展開に。レジェンドチームは夏場に弱い。磐田も同じ匂いがした。
風間が受けた時で決まったか。隙が出たね。決まるべきして決まった瞬間。本当はもっと決めるべきポイントはあったと思うが、岐阜も上手い。かわされた。
これで4位。とはいえ、上位3チームとは点差が開いている。でも、夏場にかけて躍進してけば、走り勝つ。みんなの力で。そうすれば、磐田越えができるかもしれない。
武田の落ちついたプレイには安心感がある。失点しても、仕方ないかなとも思えるくらいだ。


指原V2ならず。
やはり、残念ではある。単純に大島票が流れたか、と思う。まるで政治の世界のようだが。
もう、いいのではないか?という気もする。V2にならなかったことで、逆に権威がなくなったと言っていい。そこにこだわることに意味が薄くなったと言える。

指原は史上最強、前代未聞のアイドルだった。
しかし、もう、媚を売る必要はない。アイドルにこだわる必要も感じていないのではないか?
次のステージに上がってほしい。小説でもいいかもしれない。何かを作り出す仕事を見つけることだ。無理しなくて、遊びながら楽しくできることを見つけて。
これからはそれができる。
私は、指原のMC力にも期待している。
自分が面白いことをやっていかなければダメ。やらされている感が出てしまったら、指原も終わりだ。どこまでもわがままを通して、面白いことを追いかけてほしい。
実質は、AKB(HKT)引退(脱退)が本人のためには一番いいと思う。

昔の浮世絵で花魁が手紙を読んでいる絵があるのを見て、ヨーロッパ人は驚いたと言う。識字率が高すぎるというわけだ。

指原女史も早く、皇女になる覚悟を決めて欲しい。
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by worsyu | 2014-06-09 14:45 | 地域ネタ | Comments(0)

国東の珍(ちん)百景

イギリス人はどうやら権威を持つと像を作りたくなるみたいだ。
ロンドンにあるマダム・タッソーの蝋人形館が有名なところだ。

功利主義で有名なベンサムは、死後、自分の体を防腐処理して展示して欲しいと言ったそうだ。実際に、ロンドン大学に今も展示されているそうで、イギリス人の自己顕示欲は並大抵なものではないらしい。
しかし、学生たちが、その頭部をいたずらでぐちゃぐちゃにしてしまったため、現在は、蝋で作られた頭部が乗っかっているらしいが。
なかなか、ロンドンの学生もやることがエグイ。

ブラックなユーモア大歓迎のお国柄なのである。


それにしても、六郷満山会が「多くの人に見せたいなら別の場所。多くの人が見られる場所が良いのでは?」とコメントしているのには笑ってしまった。
これは、彼らなりのブラックジョークなのかもしれない。
なかなかやるではないか・・・・


まあ、久しぶりに笑える出来事ではある。これから、あの裸体を仰ぎ見て、両手でも合わせて拝むのかい?そりゃあない。
はやいところ下半身を布で被せて隠してやって欲しいものだ。ただし、それでは誰も芸術作品だとは思わないだろうが。

日本珍(ちん)百景に登録確定だね。ただし、テレビでは紹介できないかも・・・・あっボカシを入れたら大丈夫だ!!


設置写真だけで十分だ。わざわざ見に行くほど私の品性は下劣ではない。
像が撤去されるまで国東には近寄らないつもりだ。







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by worsyu | 2014-02-25 18:01 | 地域ネタ | Comments(0)

ARTの暴力

アート、特に現代アートとは何かという根源的な問題を我々に突きつけられた思いがする、今回の事件。
作家本人の裸体をそのまま型取り、鉄を流し込んでできたものなどが本当に芸術と呼べるものなのか?

かつて、アートと我々が呼んでいるものは、常に、時代に先駆けていたし、大衆を向いた自由や思いを志向していたように思う。そこには、確かに「美」というものが存在した。

典型的な例が、マネの「オランピア」だろう。当時のフランスの宮廷画壇との対決を明確に示した作品であり、印象派の産声が上がった代表作品である。
そこに描かれている女性は、娼婦である。当時のモラルを破壊するセンセーショナルな作品であっただろう。黒人の下女と黒猫が傍らに描かれている。現在、オルセー美術館で展示されている。
ここには、日本の浮世絵の影響と同時に、江戸時代の日本の大衆文化やその欲望と発露と作品の関係性などが見て取れる。一般庶民の女性の裸体を描くことはタブーではなくなったのだ。一方、日本においては、戯画としての自由はあったが、そこに到達するには、まだ時間が掛かった。

しかし、現代アートと呼ばれるものは、タブーを壊すことのみが目的化されていて、美の追求を停止か、無視しているように思える。ほとんど意図的に醜いもの、無価値なものを提示して、これが芸術の最先端だと言わんばかりである。

これらの運動は、大衆には擦り寄らない。上から見下ろすように、暴力的(神の啓示がごとく無神経)に我々のモラルを壊してしまう。

かつて、マスコミが権力を持ち、社会のモラルを壊していったように、今やネットが制限の無いモラル破壊を実践している。それを上手く操作できる者が権力を得る社会となったのだ。


アートは、庶民の美的感覚を無視する。景観を壊し、伝統的な慣習や民俗的な行いを壊す。それこそが目的と化しているのが現状だ。
パフォーマンスとしてのアートは、そうした問題提起をすることで社会に波紋を作り、社会を見直すきっかけとなることがある。
ただし、それはパフォーマンスとしてであり、作品としての価値は無いに等しい。


もし、国東の千燈地区にその銅像が建ったとしたら、その地域は、モラルハザードを許した地域として、一般の外部の人間は近寄らなくなるだろう。少なくともロングトレイルのコースとしては最悪の状況となるだろう。悪趣味の方は別にして。
それは、大衆の美的価値が権威の美的価値に負けた象徴として、「国東の恥辱」の文化財として鎮座することになるだろう。


アントニー・ゴームリー氏の裸体を見て何を感じよというのだろうか?
ダビデ像のごとく崇められたいのだろうか?
そこにはイギリスのユーモアしか見出せない。
つまり、文化的に未熟な人々-異教徒たちがイギリス人(ヨーロッパ)に憧れている様を、そして、権威にひれ伏した姿を表現したかったのだろう。
ネットではそう取られるだろう。

私は断固設置反対である。

 

 


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by worsyu | 2014-02-19 11:24 | 地域ネタ | Comments(0)

国東峯道に巨大人物像永久設置だあぁっ?!

去年の晩秋の頃。国東の文殊仙寺を訪れた。車で山を分け入り、着いたのは夕方の5時前。日暮れ前で夕闇が迫る頃合。人も少なかったが、丁度、護摩祈祷をやっていた。たまたま間に合って、まあ、ありがたいことだった。こういう真面目な寺を見ると、ありがたいと思うものだ。しかし、それだからといって、過度な信心や宗教的な思い入れは何も無いわけなのだが。

境内を廻りながら、鐘楼の先の宝筺印塔から、遠く、四国を眺めることができる。絶景である。

さて、最近、「国東アートプロジェクト」なるものが近々開かれるという噂を聞いていた。正直言って近代アートなるものにどこまで価値を見出すかどうかは、私自身、疑問符が付く。ポップカルチャーの方がまだ理解できる。美的な感覚で判断できるからだ。しかし、アートとなると哲学的な嗜好性が入り込むのだ。ほとんど思考の迷路の中でもがいている様はとても美的とは形容できない。醜ささえ感じることもある。

そこで修験者たちからクレームが起きたらしい。
どうやら千燈エリアにイギリス人彫刻家アントニー・ゴームリー氏の人体像作品を永久設置するという計画が突如浮上したのだ。

冗談じゃない。これは暴挙だろう。アートという名を借りた文化の破壊だね。


文殊仙寺の説明板にも書かれていたが、千燈寺は、大友宗麟によって焼き払われているのだ。400年以上前の話だが。(その時思ったのは、大分市の人たちは宗麟を讃えることばかりやっているが、宗教弾圧をしたことを忘れてはいけないということだ。そして、この国東の地はそういう意味では欧州文化の暴力を過去において受けた地であるということなのだ。)その後、明治維新の時にも、廃仏毀釈で多くの寺院の仏像、石像が壊されている。多くの苦難を経て、1300年余りの歴史をこの国東の地で育み守ってきた。それは、人々の思いであり、もはや、地や肉と化していると言っていいだろう。習慣として生活の一部となっているものだ。

そこに、作家自身をかたどった像を永久設置するなど、とても、信じられない。なぜ、こんな暴挙が思いつくのだろうか?そして、それが許され、そして、大金を出して設置しようとしているのか?

普通の感覚ではない人たちと思われる。でも、同じ日本人であり、大分県人がそれをやろうとしている。


私は以前、法則-教義として2つ示した。
一つは、需要と供給の法則はあらゆる場面において貫徹する。もう一つは、役人の言うことを信じるバカは、民衆に大罪を犯す(大借金を負わせる)、ということだ。


イギリス人に聞いてみるがいい。セブンシスターズに仏像を建ててもいいか?と。


こういう当たり前のことがわからない。話し合う必要も無いし意味も無い。コモンセンスだよ。常識以前の問題だ。
なぜ分からないか。もう、計画が進んでしまっているからだ。権力で押し通そうとしている。ブレーキの無い自動車に乗っているのだ。
本来、役人の暴走を止めるのが政治家の役割なのに、そんな政治家は日本中どこを探したって居やしない。大分では話し合おうだとか、議論することは良い事だとか言ってごまかすことしかしない。逃げているだけ。常識人のふりをして、実際は票が逃げるのが怖いだけ。非常識人であることを宣言しているだけ。(青島都知事くらいかな・・・でも、東京ならば何やったって平気だろうけどね。ゴミの島なんだから。)


折衷案で、素材を換えて半年の期間設定にするとか、設置場所を変えるとか、考えられるが、それでは却って作家に失礼だろう。

ここは、作家のゴームリー氏にしっかり説明して諦めてもらうことが一番いい。
バカな役人がやらかした不祥事は、市民が誠意を持って説明して始末するしかない。
イギリス本土にも事情を説明して、同意を得ることも必要だと思う。

絶対に設置させてはいけない。

ロングトレイル協会もあやふやな態度でいる。そりゃそうだろう。でも、ここは、騙されたということを全面に出せば理が通るはずだ。それとも、知っていたとしたらこれは罪だねぇ・・・・

しかし、国東って何考えてるんだか・・・・・と言いたくなる。



I only make that recent modern art destroys the existing culture and history a purpose and want many people to know that it is the exercise that there is not of most value.
Mr. Antony Mark David Gormley of the British sculptor is going to install the huge iron image which modelled one's naked body in the kunisaki City Oita Prefecture of Japan.
I object.
The plan is already authorized, and the foundation work is over.
However, I was informed of the talk set up permanently suddenly.
At the place where the mountains of nature range, a lot of temples of the Buddhism exist there. For more than 1,300 years, I brought up Buddhism culture with nature. 400 years ago, I am sacrificed for the Christianity propagation, and a temple burnt down exists. In addition, 200 years ago, religion oppression was carried out by power of the government for European culture introduction.
Do not disturb this rich nature and culture.
I want you to agree that you build the alien substance which is not good for this splendid scene and want you to give an opposite voice.
I want many people to know it.





 

 


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by worsyu | 2014-02-14 17:53 | 地域ネタ | Comments(1)

大分舞鶴高校ラグビー部優勝

大分県高校ラグビー決勝。大分舞鶴が優勝した。
大分雄城台は健闘した方か。大分舞鶴の№3がやはり強い。ここを止めなければ勝機は無かったか。
全体的な力では、バックスが見劣りする。FWは平均90kg台なので、FW戦主体でいくのだろう。

最近のラグビーは、走りよりもFW力で決まる。FWもただ重いだけでは通用しない。効果的に前に進め、着実に点を重ねていく戦術を取らなければならないだろう。

現在の学生ラグビーのトップは帝京大学のラグビーだろうか。昔の早稲田がやっていたバックスの展開力で点を取るラグビーや明治の重量級FWのみのラグビーはもはや時代遅れ。

今や、高校でもウエイトトレーニングで上半身を鍛えたマッスルマンが激突しあうラグビーが主流だろう。
そういう意味では、東明高校あたりが集中して強化すればまだ可能性が出てくるが、現状のままでは、舞鶴の天下は続くだろう。

私だったら、175センチ以上の選手を集めてウエイトトレーニングばかりやらせて、コンタクト力をつける事に強化の主眼を置くね。舞鶴を倒すには接近戦に持ち込んでそれに勝つ以外にないんだよね。
バックスもFWの突進を受けられるくらいの体格を求める。展開よりも守備重視だ。攻撃のスピードよりもコンタクトなのだ。
そうすれば、3年後には、舞鶴を倒すことができるだろう。
もちろん、これだけでは勝てない。だから3年かかるのだ。

大分舞鶴高校の全国大会での活躍を期待する。
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by worsyu | 2013-11-19 12:20 | 地域ネタ | Comments(0)

乙事主の助命嘆願を

パークプレイスに乙事主(おことぬし)が現れたとのこと!
怪我をされた方は本当にお気の毒である。

地元の猟友会が逃げた猪を追っているとのことだが、どうなんだろか?
人間の勝手で、ある時は、自然を守ろうといい、自然との共生を謳い、自然を豊富に保全していることを讃えて売り出しているところである。
しかし、人間の生活と相容れないものは排除されるという論理は、結局、作り物の自然。盆栽の大きなものでしかない。生き物が人間と共生しているイメージはそこには無い。
すでに、分譲住宅がどんどん建てられて、猪や鹿、イタチなどの動物が生活する環境はどんどん狭められている。
「もののけ姫」ではないが、人間の身勝手で自然を壊し、自分たちの勝手で自然を作り変えていく。それが今、展開されている。
田畑を作っているわけではない。それが荒らされることで駆逐される地域ではない。豊かな自然-原生林があり、そこを勝手に刈り込んで、でも、一気に禿山にしてしまうのは見てくれが良くないという理由で、少しずつ、ごまかしながら、自然を侵食し、駆逐している途上にある。大いなる欺瞞だ。やがては、八幡のように、山全体を人間の居住区として覆うまで自然を破壊しつくすのか?
それとも、人間は、あくまでも、この豊かな森の片隅に居候させてもらっている存在という謙虚な気持ちを取り戻すことができるのだろうか?

猪を駆逐することよりも、自然を尊ぶことを優先させた方が大分市のイメージは上がると思うけどね。
本来、そこを売りにしていたわけなんだけどね。
大分市はすぐ近くに自然があることが驚きなのだ。たとえば、鳥が多い。小鳥がなかなか逃げない。そんな小さな事に感動する。海端には鉄工所やコンビナートがあるのにだ。豊かな自然が手に届くところにある。この豊かさを理解しているのなら、乙事主を殺せとはならないだろう。
私は逆に何とかして乙事主を殺さないでくれと嘆願したい気持ちだ。

ご都合主義と呼ばれないように。
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by worsyu | 2013-09-09 12:19 | 地域ネタ | Comments(0)

重光葵という超人

今日は、アメリカではVJDAY(ビクトリージャパンデー)だ。そして、日本では敗戦記念日である。どこのマスコミも報じないが、日本が戦争に負けたことを正式に認めた日である。つまり、戦艦ミズーリー号の船上でポツダム宣言を受諾し正式に降伏文書に署名した日なのである。
この屈辱的な日であり、しかし、新しい日本の始まりの日でもある歴史的な場面になぜか2人の大分県出身者が居る。一人は日本政府全権の重光葵(まもる)であり、もう一人は大本営全権の梅津美治朗である。

重光は現豊後大野市三重町で生まれ、その後、母親の実家の重光家に養子となる。杵築で少年時代を過ごしている。ちなみに一方の梅津は中津市の出身である。
重光の外交官としての経歴は華麗である。当時の状況にあって、ドイツ、イギリス、アメリカ(シアトル)で公使の勤務を務め、そして中華公使として上海に着任。上海事変が起きた後、苦労して停戦協定をまとめる。
しかし、天長節にて爆弾事件に遭う。重光は、国歌が流れていたからという理由で逃げずに右足を吹き飛ばされてしまう。
その後、駐ソ公使、駐英大使となる。チャーチルとは、公私を交えてお互いに認め合う仲となる。
そして、戦争終結時に再び外相に担ぎ出され、皆がしり込みする中、天皇の意を汲み、全権代表として降伏文書の署名に臨んだのだ。

彼は「願わくば御国の末の栄え行き, 我名さげすむ人の多きを」とその日の朝に詠んだと言う。(これから先、わが国は栄えて、自分がしたことを悔い、蔑む人が多くなることを望んだのだ)誰が重光葵を蔑むだろうか。歴史の真実を知れば、重光が外交官として凛として臨んだことを私たちは忘れないだろう。少なくとも大分県人は、私心を捨て、太平の世を切り開いた重光葵(まもる)という人を誇りに思うべきだろう。 その調印式から10時間後、再び重光葵は、マッカーサーとホテルで会うことになる。
マッカーサーは天皇、首相、両議院議長以外の日本人には会うつもりはないとしていました。そこに待ち伏せし、しかも、交渉したのだ。占領軍が直接政治をやろうとし、軍政を敷こうとしたからだ。これが実施されれば、公用語は英語となり、通貨は軍票に、占領軍の裁判は軍事裁判で行われるはずだった。しかし、重光は「わが国はドイツの無条件降伏とは違う。条件降伏なのだから、無闇に従ってはならない」と毅然と理路整然と訴え、それを撤回させたのだ。その時の心境も詠んでいる。「折衝の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ」(この交渉は決裂するかもしれない。自分の主張が通るという確証は無い。しかし、死することも辞さず、成らねば帰るつもりは無いことを心に期し、全力で当たるつもりだ。)よく考えて欲しい。たかが外相である。それが日本の命運を賭して勝者の占領軍のトップと交渉をしているのだ。退けることもできたはずだ。しかし、マッカーサーを納得させ、命令を撤回させたのだ。

理だけではダメ、義だけでもダメ。そこには人間として相手を説き伏せる力がなければ成し遂げられるものではない。 そのため、彼は外相を罷免されることになるのですが・・・ 彼のおかげで、日本が日本であり続けられているのだ、ということを私たちは知っておかなければならないと思う。
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by worsyu | 2013-09-02 15:51 | 地域ネタ | Comments(2)