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天使か悪魔か

読み終えた。今の感想は、何とも言いようの無い虚しさを感じる。誰の責任という言葉が、この国ではマスゴミの魔法の杖のように振られる。しかしその答えは見出せない。会社経営に出来不出来はあっても法律に違反していなければ運が悪かったということになるのが常だ。(誰が引き金を引いたかは問題じゃないだろう。)
そこでスケープゴートとして溝畑が叩かれるのはある意図があってのことだろう。作者もそのことを知って書いている。県と経済界と地方マスゴミのなれあい、癒着、そして中央権力の意思が見えてくる。程度の低い茶番だ。振り回されたサポは今一度考えてみることだ。
ただ、必然ではあったと思うね。しかし、第2幕は始まっている。希望は捨てるな。

溝畑宏は天使か悪魔か
こういう疑問がわくのは普通の人間ではない超人だからだ。
いったい、この男は何者なのだ?つかみどころのない男だ。
人間には欲望がある。権力であり、財力であり、そして子孫を残そうとする名誉欲もある。そこが人間の弱みでもある。しかし、この男にはそれがない。それらを捨てることの出来る男は滅多にいない。妻に逃げられ、両親の死に目にも会えない。
サポーターからは叩かれ、県や県サッカー連盟からも無視され続ける。本来支えてくれるはずの地方紙も批判的に扱う。唯一理解を示すのが大分県オンブズマン代表という変な格好だ。
日本の社会では根回しが必要なのだが、それをやらないことで敵を多く作ることになった。
私欲がないから罪がない。それにつき合わされ、振り回された人々は、それでも、利用されたとは思っていない。それらの人々が持っていないものをこの男は持っていた。溝畑の空白を埋める渇望にも似たこの壮絶なエネルギーに触れたために彼らは踊ったわけだ。

さて、映画化というばか話をしたが、私の中では監督は井筒で決まっている。さて、それではこの溝畑を演じきれる役者がいるのか?それでこの映画の出来不出来が決まる。私の中では西田敏行の後継者ぐらいでないと務まらないと考えている。大阪ではなく京都のはんなり加減が必要だし、あの馬鹿ができて絵にならないとだめだし、しかもインテリジェンスがないとだめだし。今思い浮かぶのは塚地かな~。竹山は下品だから無理。ああ、あいつがいた。ブラマヨの小杉だ。演技力は未定だが。
この話はもちろん夢の中なので。問題はエンディング。その後、クラブは・・・・


オープニング。県庁近くの喫茶店で高級であろう背広をだらしなく着ている男。新聞を広げパンの食べかすをあちらこちらに散らかしている。そして「ちょくちょく来させてもらいます~」と言って去っていく。どこか憎めないところがある。

こんな非常識で社会性のない人間が高級官僚という肩書きを外しても支持されたことは奇跡だろう。本来なら袋叩きで追い出されたはずの人間がここまでできたというのも大分だからだったとも思う。作者は福岡だったらつぶれなかったかも、と言うが、大分だからここまでやれたのだと私は思う。


(私は、今まで溝畑氏に対してあまり批判的ではなかったと思う。むしろ応援していた観さえある。そういう意味ではトリサポの中でも異質なのかもしれない。別に実情に詳しいからではない。全くの門外漢で無知である。でも、彼の男気というか情熱に惚れた部分はあるかも知れない。
加藤雅也氏の葬儀で言った言葉が今でも忘れられない。これで3回目だが、口だけなら誰でも言える。しかし、この男は口だけではない。それを実行した。そのことは声を大にして言いたい。
坂本龍馬は思い立ってから実行までの時間が極端に短かったと言う。直進する。降りかかるいくつもの難題を情熱で跳ね除ける。
溝畑は日本を洗濯しようとしているのか?大分は少しはきれいになったのか?われわれは挑戦し続けるよ。まだ何も成し遂げていない。)
by worsyu | 2010-07-28 10:10 | ひまネタ
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