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重光葵という超人

今日は、アメリカではVJDAY(ビクトリージャパンデー)だ。そして、日本では敗戦記念日である。どこのマスコミも報じないが、日本が戦争に負けたことを正式に認めた日である。つまり、戦艦ミズーリー号の船上でポツダム宣言を受諾し正式に降伏文書に署名した日なのである。
この屈辱的な日であり、しかし、新しい日本の始まりの日でもある歴史的な場面になぜか2人の大分県出身者が居る。一人は日本政府全権の重光葵(まもる)であり、もう一人は大本営全権の梅津美治朗である。

重光は現豊後大野市三重町で生まれ、その後、母親の実家の重光家に養子となる。杵築で少年時代を過ごしている。ちなみに一方の梅津は中津市の出身である。
重光の外交官としての経歴は華麗である。当時の状況にあって、ドイツ、イギリス、アメリカ(シアトル)で公使の勤務を務め、そして中華公使として上海に着任。上海事変が起きた後、苦労して停戦協定をまとめる。
しかし、天長節にて爆弾事件に遭う。重光は、国歌が流れていたからという理由で逃げずに右足を吹き飛ばされてしまう。
その後、駐ソ公使、駐英大使となる。チャーチルとは、公私を交えてお互いに認め合う仲となる。
そして、戦争終結時に再び外相に担ぎ出され、皆がしり込みする中、天皇の意を汲み、全権代表として降伏文書の署名に臨んだのだ。

彼は「願わくば御国の末の栄え行き, 我名さげすむ人の多きを」とその日の朝に詠んだと言う。(これから先、わが国は栄えて、自分がしたことを悔い、蔑む人が多くなることを望んだのだ)誰が重光葵を蔑むだろうか。歴史の真実を知れば、重光が外交官として凛として臨んだことを私たちは忘れないだろう。少なくとも大分県人は、私心を捨て、太平の世を切り開いた重光葵(まもる)という人を誇りに思うべきだろう。 その調印式から10時間後、再び重光葵は、マッカーサーとホテルで会うことになる。
マッカーサーは天皇、首相、両議院議長以外の日本人には会うつもりはないとしていました。そこに待ち伏せし、しかも、交渉したのだ。占領軍が直接政治をやろうとし、軍政を敷こうとしたからだ。これが実施されれば、公用語は英語となり、通貨は軍票に、占領軍の裁判は軍事裁判で行われるはずだった。しかし、重光は「わが国はドイツの無条件降伏とは違う。条件降伏なのだから、無闇に従ってはならない」と毅然と理路整然と訴え、それを撤回させたのだ。その時の心境も詠んでいる。「折衝の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ」(この交渉は決裂するかもしれない。自分の主張が通るという確証は無い。しかし、死することも辞さず、成らねば帰るつもりは無いことを心に期し、全力で当たるつもりだ。)よく考えて欲しい。たかが外相である。それが日本の命運を賭して勝者の占領軍のトップと交渉をしているのだ。退けることもできたはずだ。しかし、マッカーサーを納得させ、命令を撤回させたのだ。

理だけではダメ、義だけでもダメ。そこには人間として相手を説き伏せる力がなければ成し遂げられるものではない。 そのため、彼は外相を罷免されることになるのですが・・・ 彼のおかげで、日本が日本であり続けられているのだ、ということを私たちは知っておかなければならないと思う。
by worsyu | 2013-09-02 15:51 | 地域ネタ
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